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実写版『時をかける少女』(1983)におけるエロ、子どもの69・原田知世の唇・ロリコン×サディズム

実写版『時をかける少女』(1983)を観た。

胸を打つ感動があり、映像表現も面白く効果的、総じて素晴らしい映画である。
素晴らしい理由は多々あると思うが、絶対無視できないのは 「 エロ 」 である。
本記事では実写版『時をかける少女』(1983)における3つのエロを論じたいと思う。


一つ目のエロであり、本作で一番ヤバいエロシーンは、「 深町(実際は吾朗)と和子の幼少期回想シーン 」である。

『時をかける少女』(1983)シーン01

鏡の破片で手を切った二人がお互いの傷を舐めあうシーンである。
このシーンを観れば瞬間的に分かることだが、子どもの二人がやっていることはシックスナイン以外の何物でもない。
深町(実際は吾朗)は親指の先を、和子は人差し指と親指の間の股を怪我している。
男の子の先っちょを女の子が、女の子の股を男の子が、同時に舐めている。
子どもにセックスさせる映画、それが実写版『時をかける少女』(1983)だ!!!、ヤバすぎる!!!


二つ目のエロは、「 原田知世の唇 」である。

『時をかける少女』(1983)シーン02

私はこのシーンで唇がエロいと思った。それはなぜか。答えは原田知世の顔にある。
すごくボーイッシュで、女性性、性的なエロさ、女の魅惑を放っていない。
原田知世の顔は平坦である。悪意ある言い方をすれば、モアイ像のような平坦さを持っており、凹凸または起伏が少ないのぺっとした顔立ちである。
私の視線(男の視線、それは常に下心のあるスケベな視線である)は平坦な原田知世の顔を前にしてまず錯綜する。
「エロはどこにあるんだ!」「女はどこにいるんだ!」といった感じで戸惑うのである。
この錯綜する視線は彼女の唇に安穏の地を見つける。
原田知世の平坦な顔において唇の起伏はまったくもって乳房そのものであり、女の象徴である。唇の赤さもそれを支援する。
ボン・キュッ・ボンからほど遠い貧相な身体に、確かに膨らんでいる胸を見つけ、興奮するのである。


三つ目のエロは、角川3人娘なんてものの一翼を担うこの映画のつくり方そのものである「 ロリコン×サディズム 」だ。これはいわゆるアイドル角川映画全般に通じるものかもしれない。

『時をかける少女』(1983)シーン03

角川映画のヒロインは15歳前後(中学生)の少女を起用している。
大人の女と子どもの女の中間に位置するのがこの年頃の少女であり、彼女らは子どもかつ性の対象という存在になりやすい。
すなわち一般的にロリータコンプレックスを育む性質が女子中学生にはある(と思うよw、『セーラー服と機関銃』なんてロリコン映画丸出しだし、、、あの映画の薬師丸ひろ子はもうちょい年上だけど、、、)。
そして、そんな彼女らに演技というものをやらせること。これは役柄という縄で縛りあげることにほかならず、サディズムに満ち溢れており、すなわち性愛が彼女らに向けられているのであって、ロリータコンプレックスが必然的に発生している。
画面に映る彼女らの演技を観ればわかるが、子どもの純真さで頑張って精一杯の演技をしているのだが、演技の技術など有さず、天才的才能もない彼女らの演技はぎこちなくならざるを得ない結果となっている(クサい芝居を助長させる脚本・セリフも一因だ)。
そもそも無理なことをやらせて辱めること、その必死な様子を楽しむ変態趣味を感じざるを得ない。

おもしろいのは、『時をかける少女』の場合この変態趣味が功を奏し、 原田知世のぎこちないけど懸命な様子が、演技の上手い下手を通り越して人の心に訴える説得力を獲得してしまっていることだ。彼女の頑張りが余計に伝わるもんだから、その言葉に真実味が宿ってしまうのだ。
最後の理科室のシーンはタイムリープシーンも相まって泣きそうになったでほんま!!!



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シン・ゴジラ ― 感想

シン・ゴジラ

まぎれもなく良い映画であり、おもしろい映画だ。

歯切れの良いモンタージュのリズム、場面転換で時折入るボケて揺れている望遠の風景、メカへの愛を感じる兵器の視点(イスやパトカーや戦車に乗っているものから重機や機銃や電車の画まで)、明朝体のテロップ、シニカルでかわいらしい笑い、「気持ち悪い!、こっち来んな!とおもう」変態前の気持ちわる~いゴジラ、変態後のゴジラのウツボのような尻尾、巨神兵の如きエクストリームな破壊、くそデカい置物のようなゴジラ×小っちゃく見える街×空撮、丁度いい塩梅で入るミニチュア感、ゴジラの起こす震動で揺れる瓦の揺れ方その見せ方、乾燥したような画面の色味、(以下略

これらが綜合されて作品となり、監督の感性が作品全体で体当たりしてくる感覚を得る、そんな映画、これぞ良い映画。

私が言うところの「良い映画」とは、監督(≒作り手 ※映画は集団作業だが監督という人格によって支配されている面白い芸術である)の感覚または感性(*)と呼べるものが適切な表現によって作品を被っている作品のことであり、シン・ゴジラはまさしくそういう映画であった。
シン・ゴジラは総監督である庵野秀明氏(またはこの映画を所有する人格としての制作陣)の感性が個々のショットやシーンからビンビン感じられた良い映画である。

「良い映画」を観て、3.11以降の日本を…とか、安全保障の問題が…とか、ゴジラは神であり…といった「テーマ」論議をすることはナンセンスだ。字義通りsense=感覚が欠如している。(今日的なテーマを持ったストーリーによって映画に説得力(映画的リアリティ)がもたらされていることは確かであり、そういう議論は大切だけど、もちっと感性を大事にしようぜ(**))

However

批判点が無いわけではない。

映画後半にかけてのイケイケどんどん感はステレオタイプであり、借り物である感じを拭えなかった。

個人的には借り物でない独自の感性を突き詰めてほしかったが、あれはあれでお決まりであるし、庵野監督っぽくもあるし、十分楽しめるので全然おっけーってことにしておかざるを得ない。それほど良い映画であった。





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*
上記の「感覚」「感性」とは例えば、アンリ・ルソーの絵を見た人が―たとえその人がルソーのことを知らなく、ルソーの絵を一度も見たことがなかったとしても―、アンリ・ルソーの絵から感じ取るところのアンリ・ルソーっぽさのことである。

**
テーマと感覚について

『超映画批評』では明朝体で書かれた人や場所の名前のテロップ、その執拗なまでの表示について、「日本人の強さとは「個」ではない(だからさほど気にする必要はない)、という事を伝えている」(1)と述べている。

そのような“意味”をあの表現に読み取ることは間違いとは言えない(そう読み取ることは全くもっておかしいことではない)が、それをテーマとして強調するところまで行くと、あの表現の感覚がいささか見落されることにつながるように思うのだ。

私が思うに、あのテロップが表示された瞬間見る者が感じるものはどこまでも、テロップをつけられた対象の「個」性ではないのか。

読み切れない速度で、覚えることが不可能なほどに何回も提示されるテロップは、まさにそれがテロップであること自体によって、テロップが表示された瞬間に「名付け」の力を発揮し(名前や肩書の内容は何であってもいい、名前があり、肩書があるということを見る者は瞬間的に感じ取る、もはや「名無し」ではない)、名付けられた者の輪郭を濃くし、個として集団から点の如く浮かび上がらせている。

その人が誰でもないその人であるという限定性、その場所がある特定の場所であるという限定性をテロップは感じさせる。それがテロップの自然な摂理でもある。

映画のワンシーンで、ある場所で待機している記者たちが描かれていた。そのシーンにはテロップで場所の名前が表示されていた(名前は覚えていないが建物名と階数が書かれていた)。

それを見た瞬間私は、そのテロップによって、ゴジラのようなスペクタクルでドラマチックな怪獣映画のフィクション然とした型枠に情けながらの存在的肉感が添えられたように感じたのだ。

ゴジラのような映画では、必然的な事の成り行きとして記者を描いたシーンが配置される(初代ゴジラでもそうだった)。

『シン・ゴジラ』におけるこの記者のシーンが、この手の映画においてお決まりのシーン配置であるという感触がいささか払拭されたのは、その場所が明朝体のテロップで表示されることによって、そこで起きている事態が「名無し」ではなくなり、より濃い輪郭=個としての存在感を持ち、ある種の「重さ」を持ったためである。

『シン・ゴジラ』において頻出する明朝体テロップが、演出として、私たちの感覚におよぼす気持ちよさは、つまるところこの「重さ」であって、この映画を「イイネ!」と思う時、その「イイネ!」を支えているのは、高速×頻繁な明朝テロップが表す登場人物たちのチームプレー感(『超映画批評』では「群れ」「集団」などと記されている)よりも、名無しではないことによる存在感=重さではないのか。

※明朝体というフォントのイメージがこの映画でどのように働いているかは今の私には言語化できない

(1)前田有一「『シンゴジラ』」超映画批評, 2016/07/29, http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm



『ジュラシック・パーク (Jurassic Park)』に出てくる「緑色のゼリー」について

ジュラシック・パーク・シリーズの新作『ジュラシック・ワールド』が今年公開(日本では8/5)ということで、第一作『ジュラシック・パーク 』を見直してみた。



特に子どもの時の記憶に多いのだが、突き刺すような点的な記憶というものがあると思う(バルトのいう「プンクトゥム」的といえるような)。

その記憶は概して一瞬のもので、五感を通してその時感じた全感覚、その時の全現象がその一点にそのまま保存されているような記憶である。

その記憶が開かれる際には、その時の現在がそのままに与えられている気がする。

記憶の準現前性を感じさせない、直接的な、現前的記憶というものがあると思う。


今回、『ジュラシックパーク』を小学生の時以来に見直して、そのような記憶に出会った。

それは映画の終盤の食事シーン。食堂に逃げ込んだ子供たが食べる「緑色のゼリー」である。


jurassicpark 2
画像は Jurassic Park (1993, film)からの引用(以下の画像も同様)
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


私は小学生の時にこのゼリーを見て「おいしそう」と思った。

その小学生の時に得た「おいしそう」という触覚的感覚が、今このワンカットとともによみがえってくる。

映画『ジュラシックパーク』の中で私にとって一番印象的な、脳裏に焼き付いているシーン(対象)は間違いなくこの「緑色のゼリー」である。


おそらくここまでにこの「緑色のゼリー」が強力な記憶となっているのは個人的な嗜好のためだけではない。

エイリアンの体液のように毒々しい緑色をした、着色料・添加物上等といわんばかりのこのゼリーは、文明的な食べ物の象徴である。

恐竜の血なまぐさい野性的な食事とは正反対の人間の文明的な食事がそこにはある。

jurassicpark 1
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


見方によれば『ジュラシックパーク』は恐竜が食事をする映画といってもよい。サブタイトルが「恐竜の食事」でもいい(笑)。

主人公たちはまさに恐竜たちの食堂に迷い込んだわけである。

そこから脱出し逃げ込む先は、屋内の、テーブルと椅子の揃えられた人間の食堂であり、そこでフォークとスプーンでもって人工的な、刺激的な色をしたいかにも甘ったるそうなゼリーやケーキを食べる。これぞ人間の文明的な食事の極致である。

そのため、この後半の食事シーンで、映画前半の食事シーンに出てくるような食べ物(下画像)を提示するようなことはあってはならない。

jurassicpark4
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


このステーキ?の出てくる前半の食事シーンは後半の食事シーンと対照を成すものである。

実際に、前半の食事シーンはラプトルが牛を食べるシーンに続くもので、野生の食事に属している。だからおいしそうじゃないのだ。


「恐竜が食べる」映画である『ジュラシックパーク』において「食事」はこの上なく重要な意味を持っている。
『ジュラシックパーク』に食事シーンは必要不可欠であり、恐竜の食事と人間の食事の対照関係、前半・後半の対照的な食事シーンは絶対に描かれければならないのである。

スピルバーグがすごいのはそれをイメージ化する時のセンス(sence)、というよりもむしろ、イメージをイメージとして提示するセンスである。

「緑色のゼリー」にはスピルバーグのセンスが詰まっている。

ゆえに私が「緑色のゼリー」を現前的記憶として持っていたのは不思議なことではない。

「緑色のゼリー」は意味を意味の手前で、言語や論理を介する必要なく訴えるイメージであり、小学生の私はそれを素直に受け取ったのだろう。



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