伊藤祐靖著 『国のために死ねるか』を読んだ

伊藤祐靖著 『国のために死ねるか』を読んだ。

伊藤氏の人生ドキュメンタリーとして読むことができ、すごく面白い。
ミリタリー好きとして純粋に好奇心を満たされる話がてんこ盛りである。
能登半島沖不審船事件の描写や特殊部隊創設にあたって目の当たりにする日本と世界の軍隊の内情あれこれなども相当面白いが、やはりミンダナオ島での20代の女性ラレインとの訓練の話は最高である。
ラレイン氏のキャラクターは完全にフィクションの世界のそのものであり驚くばかりだ。
ラレイン氏に息衝いている殺し合いの生々しさとミンダナオ島の文化、そして20代の女性らしいチャーミングさが相俟って、本書におけるラレイン氏は恐ろしく妖艶で魅力的な人物に映る。
そのような人がこの世にいることと、そのような人を生む環境がこの世にあることに思いを馳せざるを得ない。


ところでこの本の帯を書いた人はこの本をどう読解したのだろうか。

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このような分かりやすくポピュリズム的な内容だったであろうか。
全くもってヒューリスティックではない、迂回の物語ではなかったか。
引用という暴力は慎重に扱わなければならない。
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禅とロラン・バルト

筑摩書房から出版されている鈴木大拙の『禅』という本を読んでいた時、ふと、ロラン・バルトの『明るい部屋』を思い出した。


『明るい部屋』は写真論であるが、それ以上に、バルトが亡き母への愛を綴った本でもある。

失われた母を求めて、バルトは写真をさまよう。

そして、バルトはついに母を見つけ、こう叫ぶ。「これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!

それは母の子どもの時の写真であった。

バルトが実際に見てきた、母親としての大人の母ではなく、バルトがまだ生まれていない時の、バルトのことなど露程も知らない、子どもの母である。


私は、バルトのこの体験を理解できずにいたが、鈴木大拙の『禅』を読んでいるとき、まさに、ふと、<分かった>。それは<悟り>の如きもので、「分かる」「分からない」といったものでなく、胸の奥に不意に明かりが灯った様な感覚である。私は今、この感覚を言語化しようと、論理的に説明しようとしている。<分かった!>という悟り的体験に対し、言語化、論理化は常に後手に回るのだ。


バルトが母を見つけたときも、そうだったに違いない。

バルトは母を見つけた時の体験を次のように述べている。

それは…無関係なとつぜんの目覚め、言葉を欠いた悟りであり、《そのとおり、そう、そのとおり、まさにそのとおり》という境位の稀に見る、おそらく唯一の証であった。


バルトは、子どもの母を見て、ある軌跡を歩んだに違いない。それは、

これ(子どもの母)は、 母である、 また、 母でない、 そして=しかし、 紛れもなく母親だ!!!

といった軌跡である。禅的、また仏教的には次の如しである。

「“シューニヤター(空)”を体験する前は、山は山であり、川は川である。だが体験してのちは、山は山でなく、川は川はでない。しかし体験が深まる時、ふたたび山は山であり、川は川である。」


「母の子どもの時の姿」ということが何よりも肝要である。

写真に写っている幼い少女は、たしかに、ある個人として母である。しかし一方では、子どもであって母親ではなく、また、バルトが実際に見て触れた母でもない。

写真に写った少女(母の子どもの時の姿)において、母が母であることと、母が母でないことが、全くもって「」になっている。少女は一元論を形成している。その少女こそ「」である。

シェイクスピアが「きれいは汚い、汚いはきれい」、といったように、母が母であると言った時には、すでに母は母でない。これはヘーゲルの弁証法である。

be動詞で結ばれる存在論は常に二元論である。

紛れもない母であるためには、「母だ!」と叫ぶしかない。


写真に写った少女(母の子どもの時の姿)は、「母が母である」ことと、「母が母でない」ことを止揚して、一文字の「母」になったのだ。 「であること」と「でないこと」の二元論の境地を脱し、紛れもない存在に、実在に、現実になったのだ。

写真に写る少女は、<如実な母>なのだ。

「“シューニヤター”が真に“シューニヤター”(空)である時、それは“タタター”(如)と一つになる。」とはまさにこのことだろう。




「悟り」というと超人間的な者が到達する境地のように考えてしまうが、おそらく決してそうではないのだろう。

われわれは皆、上記のようなふとした気づきとして、「プチ悟り」を経験しているはずだ。

バルトのように、われわれはどこかでプチ悟りを通して現実界を垣間見ているのではないだろうか。

これはとても道徳的であり、倫理的なことだと思う。



(引用、参考書)
鈴木大拙著、工藤澄子訳(1987)、『禅』、筑摩書房、175項
ロラン・バルト著、花輪光訳(1985)、『明るい部屋 写真についての覚書』、みすず書房、123.134項



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