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映画『ゼロ・ダーク・サーティー(Zero Dark Thirty)』――主人公マヤの動機と「オサマ・ビン・ラディン」という誇大幻想について

映画『ゼロ・ダーク・サーティー(Zero Dark Thirty)』において、主人公マヤはなぜビン・ラディンに偏執狂的態度を示すのか。


高卒でリクルートされた彼女には特別な事情があってビン・ラディンに殊更恨みを抱いていたのかもしれない。
彼女の男性的外見と性格から察するにマッスルな職場環境であろうCIA内で女性であること、またエリートの集まるなかで高卒という肩書をもつことなど諸コンプレックスの表出であったのかもしれない。

映画内からいろいろ理由を考えることはできるだろうが、明確な答えは得られない。

答えのないことが答えであって、そもそも確固たる動機など必要なく、ビン・ラディン殺害後のホワイトハウス前での「U・S・A」コールのように、ビン・ラディンへの偏執狂的態度は国家という表象を巧みに扱うアメリカの政治の中で簡単に自動的に醸成されるのであって、マヤの動機の不透明さはそういったものを表現したものだ、ともいえるかもしれない。


しかし、
明らかなことは、マヤはビン・ラディンに「ぞっこん」だったこと。

それも、同僚の男には目もくれないほどに。

ビン・ラディンの死を目にして涙を流すほどに。


この映画において、マヤとビン・ラディンの関係には恋愛のモチーフが不可避的に発生している。また意図的にそうしくまれているだろう。

マヤはビン・ラディンという男を必死に追いかける女である。男女関係が必然的に入り込んでくる。

憎悪の関係のはずが、恋愛の関係のようにみえてしまうというよくある現象である。
(アメリカの対テロ戦争の構造を暗示しているのかもしれない)


ラストシーンで、マヤは、オサマ・ビン・ラディンという男を失い、行き先を失う。

マヤはこれからも違うオサマ・ビン・ラディンを探すのだろうか。





もうひとつ、ここに書きたいのは

この映画において観客はビン・ラディンの姿をほとんど見ることができないということ。

seals隊員に撃たれた死体がほんの数秒映るだけ、顔は映らない。


映画では、ビン・ラディン殺害へいかにたどり着くのかという経過が約2時間ほどたっぷりと時間をかけて描かれ、ビン・ラディン殺害の瞬間という、その決められたクライマックスへ向け観客はカタルシスの瞬間を延々引き延ばされるわけだが、その結果見せられるのは、単純作業の如く、あっという間に殺されるシーンである。


まったくもって劇的な演出はなく、観客は肩すかしを食らう。

この映画を観て感じる消化不良感の主な原因はここにあると思うが、
おそらくこれが現実なのであって、この映画は「これが現実なのだ」と訴えているのである。


オサマ・ビン・ラディンなどただの一人の男に過ぎないのである。

これはアメリカには受け入れがたい事実である。

オサマ・ビン・ラディンなど一国の元首などではなくテロ組織のリーダーにすぎず、一人のちっぽけなおっさんであるというどうしようもない事実。
アメリカが動揺し恐怖した相手がそんな矮小な存在であってはならない。だからこそアメリカはビン・ラディンを悪の権化として殊更に大きく扱ってきたのである。


『ゼロ・ダーク・サーティー』を見た観客は「オサマ・ビン・ラディン」が誇大化した幻想であることに否応なく感覚的に気づかされるのである。


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