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許しと愛と存在と

芸術とは許してくれるものだと思う。
ぼくが映画という芸術を好きなのは、それがぼくの避難所であって、そこにおいてぼくの存在が許されるからだと思う。


俳句のある性質においてこの事態が端的に顕現している。
「琴箱や古物店の背戸の菊」と詠んだ瞬間、存在は許された。
「いる」・「ある」という存在、単純で素朴な存在を認めてもらうこと、これが“許し”である。

夕暮れ時、窓の外を眺める、斜向かいの家の垣根の下を猫が歩いている、その隣を自転車が通る、遠くには夕日を背負った大きな鉄塔が見える。
夏、白昼、ベッドの上で仰向けに寝る、頭上で唸るクーラーを見つめる、部屋は冷たい、強い日光はカーテンで受け止めきれずに私を射す、外では蝉が喚く。
私の存在は許された。

この情景は真実であり、究極的な存在であるところの真実、その真実の理、すなわち真理において、私の存在は許された。


このような許しが先鋭化されたものが愛であろう。
愛しているとき、愛されたとき、そして、愛されていることを実感しているとき、そのときはじめて充実して存在し始める。つまり、生きることを許されるのである。
生きるとは意味的な世界に参入することであり、無機質な世界にいることをここでは「生きる」とは言わない。
生きることは難しい。
この世界の二重構造の狭間で人は苦悩するのではないか。
そして、生きることの難しさに直面した時、人は芸術を求め、存在の許しを乞うのである。
そうにちがいない。


それゆえ芸術は許すものでなければならない。
この点で芸術とは人の生存をかけた最重要の創造行為なのである。


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Author:ごろぅ

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