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日々の疑問 ― 国家間外交

なんで国家間外交ってママ友同士の意地の張り合いみたいな調子が当たり前のごとくまかり通ってるんだろうか

人と人との個人レベルの関係では無意識的にもそういう状態は避けられるものだとおもうけど

国と国とか、集団同士の関係になるとなんか見栄っ張りになっちゃうよね






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シン・ゴジラ ― 感想

シン・ゴジラ

まぎれもなく良い映画であり、おもしろい映画だ。

歯切れの良いモンタージュのリズム、場面転換で時折入るボケて揺れている望遠の風景、メカへの愛を感じる兵器の視点(イスやパトカーや戦車に乗っているものから重機や機銃や電車の画まで)、明朝体のテロップ、シニカルでかわいらしい笑い、「気持ち悪い!、こっち来んな!とおもう」変態前の気持ちわる~いゴジラ、変態後のゴジラのウツボのような尻尾、巨神兵の如きエクストリームな破壊、くそデカい置物のようなゴジラ×小っちゃく見える街×空撮、丁度いい塩梅で入るミニチュア感、ゴジラの起こす震動で揺れる瓦の揺れ方その見せ方、乾燥したような画面の色味、(以下略

これらが綜合されて作品となり、監督の感性が作品全体で体当たりしてくる感覚を得る、そんな映画、これぞ良い映画。

私が言うところの「良い映画」とは、監督(≒作り手 ※映画は集団作業だが監督という人格によって支配されている面白い芸術である)の感覚または感性(*)と呼べるものが適切な表現によって作品を被っている作品のことであり、シン・ゴジラはまさしくそういう映画であった。
シン・ゴジラは総監督である庵野秀明氏(またはこの映画を所有する人格としての制作陣)の感性が個々のショットやシーンからビンビン感じられた良い映画である。

「良い映画」を観て、3.11以降の日本を…とか、安全保障の問題が…とか、ゴジラは神であり…といった「テーマ」論議をすることはナンセンスだ。字義通りsense=感覚が欠如している。(今日的なテーマを持ったストーリーによって映画に説得力(映画的リアリティ)がもたらされていることは確かであり、そういう議論は大切だけど、もちっと感性を大事にしようぜ(**))

However

批判点が無いわけではない。

映画後半にかけてのイケイケどんどん感はステレオタイプであり、借り物である感じを拭えなかった。

個人的には借り物でない独自の感性を突き詰めてほしかったが、あれはあれでお決まりであるし、庵野監督っぽくもあるし、十分楽しめるので全然おっけーってことにしておかざるを得ない。それほど良い映画であった。





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*
上記の「感覚」「感性」とは例えば、アンリ・ルソーの絵を見た人が―たとえその人がルソーのことを知らなく、ルソーの絵を一度も見たことがなかったとしても―、アンリ・ルソーの絵から感じ取るところのアンリ・ルソーっぽさのことである。

**
テーマと感覚について

『超映画批評』では明朝体で書かれた人や場所の名前のテロップ、その執拗なまでの表示について、「日本人の強さとは「個」ではない(だからさほど気にする必要はない)、という事を伝えている」(1)と述べている。

そのような“意味”をあの表現に読み取ることは間違いとは言えない(そう読み取ることは全くもっておかしいことではない)が、それをテーマとして強調するところまで行くと、あの表現の感覚がいささか見落されることにつながるように思うのだ。

私が思うに、あのテロップが表示された瞬間見る者が感じるものはどこまでも、テロップをつけられた対象の「個」性ではないのか。

読み切れない速度で、覚えることが不可能なほどに何回も提示されるテロップは、まさにそれがテロップであること自体によって、テロップが表示された瞬間に「名付け」の力を発揮し(名前や肩書の内容は何であってもいい、名前があり、肩書があるということを見る者は瞬間的に感じ取る、もはや「名無し」ではない)、名付けられた者の輪郭を濃くし、個として集団から点の如く浮かび上がらせている。

その人が誰でもないその人であるという限定性、その場所がある特定の場所であるという限定性をテロップは感じさせる。それがテロップの自然な摂理でもある。

映画のワンシーンで、ある場所で待機している記者たちが描かれていた。そのシーンにはテロップで場所の名前が表示されていた(名前は覚えていないが建物名と階数が書かれていた)。

それを見た瞬間私は、そのテロップによって、ゴジラのようなスペクタクルでドラマチックな怪獣映画のフィクション然とした型枠に情けながらの存在的肉感が添えられたように感じたのだ。

ゴジラのような映画では、必然的な事の成り行きとして記者を描いたシーンが配置される(初代ゴジラでもそうだった)。

『シン・ゴジラ』におけるこの記者のシーンが、この手の映画においてお決まりのシーン配置であるという感触がいささか払拭されたのは、その場所が明朝体のテロップで表示されることによって、そこで起きている事態が「名無し」ではなくなり、より濃い輪郭=個としての存在感を持ち、ある種の「重さ」を持ったためである。

『シン・ゴジラ』において頻出する明朝体テロップが、演出として、私たちの感覚におよぼす気持ちよさは、つまるところこの「重さ」であって、この映画を「イイネ!」と思う時、その「イイネ!」を支えているのは、高速×頻繁な明朝テロップが表す登場人物たちのチームプレー感(『超映画批評』では「群れ」「集団」などと記されている)よりも、名無しではないことによる存在感=重さではないのか。

※明朝体というフォントのイメージがこの映画でどのように働いているかは今の私には言語化できない

(1)前田有一「『シンゴジラ』」超映画批評, 2016/07/29, http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm



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