bill wurtz、CHASSOL

youtubeで“history of japan”という動画が2日前にアップされ、今現在、視聴回数が3千万回に上ろうとしている。

一瞬にしてその言葉の調べに魅了された。

制作者はbill wurtz、彼の他の作品をあさってみたが、とてもおもしろい。

“hermonizing the weather lady”には驚かされた。

その内容は、タイトル通り、お天気お姉さんのしゃべり声をハーモナイズしているのだが、人の会話の上にコードを響かせるだけでこんなにもおもしろい現象がうまれるのかと感動した。


人のスピーチをハーモナイズする音楽作品は他にないかと探したところ、CHASSOLというアーティストが見つかった。

日本でもライブをしたことがあるということで、結構名の知れた人なのだろう。

あえてミュージシャンと言わなかったのは、CHASSOLと言う人の作品はMVやライブ映像を見る限り、その映像表現も作品の核をなしていると思われたからだ。

“Music is God my love”の温かさは何だろうか。

彼の作品と対峙すると、彼にとって神や愛とは音楽なのだということが伝わってくる。

われわれの世界に時間が流れているように、彼の世界には常に音楽が流れているのだろうか。




とりあえず、X-PIANOSとINDIAMOREをポチった。来るのが楽しみだ♪

漫画『よつばと!』について―「よつば」と「ねこ」

ふと「よつばと!」を読み返し、YouTubeでBSマンガ夜話を見た。


番組の中で、小岩井家の家族感の希薄さから「よつばはペットに近い?」という発言が出ていたが、

そう聞くと、よつばは「ねこ」みたいかもしれないと感じた。


「よつばと」のリアリティを保つためには、よつばの立ち位置は確固たる関係の上にあってはならないため、家族関係や友達関係などの諸種の鋳型にがっちりはまることは許されない。

よって、よつばは何者かを探れば探るほど、「よつばは○○だ」と言えば言うほど、よつばを捉えることができなくなるのである。

しかしながら、それにもかかわらず、BSマンガ夜話での発言から、私は「よつば=ねこ」という同一性をふと感じ、それを違和感なく受け入れられると思った。


よつばにとって自分の家は仮住まいのごとく、昼間はもっぱら家を出て近所を散歩し、遊び、お隣さんの家でおやつをもらう。

(動物としての猫ではなく、)いわゆる「ねこ」のように、おもむくままに日々を暮らしているかわいい生き物で、子ども、家族、友だち、ペット、のどれでもなくどれでもあるような存在である。


道端でその姿を見るとうれしい気持ちになる。何をしているのか気になり後を追っかけたくなる。もっと近しい間柄になり一緒に遊びたいと思う。

その存在が日々に小さなよろこびをくれる、いてくれないとちょっとさびしい、プチファンタジスティックな近隣住民。

『ジュラシック・パーク (Jurassic Park)』に出てくる「緑色のゼリー」について

ジュラシック・パーク・シリーズの新作『ジュラシック・ワールド』が今年公開(日本では8/5)ということで、第一作『ジュラシック・パーク 』を見直してみた。



特に子どもの時の記憶に多いのだが、突き刺すような点的な記憶というものがあると思う(バルトのいう「プンクトゥム」的といえるような)。

その記憶は概して一瞬のもので、五感を通してその時感じた全感覚、その時の全現象がその一点にそのまま保存されているような記憶である。

その記憶が開かれる際には、その時の現在がそのままに与えられている気がする。

記憶の準現前性を感じさせない、直接的な、現前的記憶というものがあると思う。


今回、『ジュラシックパーク』を小学生の時以来に見直して、そのような記憶に出会った。

それは映画の終盤の食事シーン。食堂に逃げ込んだ子供たが食べる「緑色のゼリー」である。


jurassicpark 2
画像は Jurassic Park (1993, film)からの引用(以下の画像も同様)
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


私は小学生の時にこのゼリーを見て「おいしそう」と思った。

その小学生の時に得た「おいしそう」という触覚的感覚が、今このワンカットとともによみがえってくる。

映画『ジュラシックパーク』の中で私にとって一番印象的な、脳裏に焼き付いているシーン(対象)は間違いなくこの「緑色のゼリー」である。


おそらくここまでにこの「緑色のゼリー」が強力な記憶となっているのは個人的な嗜好のためだけではない。

エイリアンの体液のように毒々しい緑色をした、着色料・添加物上等といわんばかりのこのゼリーは、文明的な食べ物の象徴である。

恐竜の血なまぐさい野性的な食事とは正反対の人間の文明的な食事がそこにはある。

jurassicpark 1
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


見方によれば『ジュラシックパーク』は恐竜が食事をする映画といってもよい。サブタイトルが「恐竜の食事」でもいい(笑)。

主人公たちはまさに恐竜たちの食堂に迷い込んだわけである。

そこから脱出し逃げ込む先は、屋内の、テーブルと椅子の揃えられた人間の食堂であり、そこでフォークとスプーンでもって人工的な、刺激的な色をしたいかにも甘ったるそうなゼリーやケーキを食べる。これぞ人間の文明的な食事の極致である。

そのため、この後半の食事シーンで、映画前半の食事シーンに出てくるような食べ物(下画像)を提示するようなことはあってはならない。

jurassicpark4
Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved


このステーキ?の出てくる前半の食事シーンは後半の食事シーンと対照を成すものである。

実際に、前半の食事シーンはラプトルが牛を食べるシーンに続くもので、野生の食事に属している。だからおいしそうじゃないのだ。


「恐竜が食べる」映画である『ジュラシックパーク』において「食事」はこの上なく重要な意味を持っている。
『ジュラシックパーク』に食事シーンは必要不可欠であり、恐竜の食事と人間の食事の対照関係、前半・後半の対照的な食事シーンは絶対に描かれければならないのである。

スピルバーグがすごいのはそれをイメージ化する時のセンス(sence)、というよりもむしろ、イメージをイメージとして提示するセンスである。

「緑色のゼリー」にはスピルバーグのセンスが詰まっている。

ゆえに私が「緑色のゼリー」を現前的記憶として持っていたのは不思議なことではない。

「緑色のゼリー」は意味を意味の手前で、言語や論理を介する必要なく訴えるイメージであり、小学生の私はそれを素直に受け取ったのだろう。



禅とロラン・バルト

筑摩書房から出版されている鈴木大拙の『禅』という本を読んでいた時、ふと、ロラン・バルトの『明るい部屋』を思い出した。


『明るい部屋』は写真論であるが、それ以上に、バルトが亡き母への愛を綴った本でもある。

失われた母を求めて、バルトは写真をさまよう。

そして、バルトはついに母を見つけ、こう叫ぶ。「これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!

それは母の子どもの時の写真であった。

バルトが実際に見てきた、母親としての大人の母ではなく、バルトがまだ生まれていない時の、バルトのことなど露程も知らない、子どもの母である。


私は、バルトのこの体験を理解できずにいたが、鈴木大拙の『禅』を読んでいるとき、まさに、ふと、<分かった>。それは<悟り>の如きもので、「分かる」「分からない」といったものでなく、胸の奥に不意に明かりが灯った様な感覚である。私は今、この感覚を言語化しようと、論理的に説明しようとしている。<分かった!>という悟り的体験に対し、言語化、論理化は常に後手に回るのだ。


バルトが母を見つけたときも、そうだったに違いない。

バルトは母を見つけた時の体験を次のように述べている。

それは…無関係なとつぜんの目覚め、言葉を欠いた悟りであり、《そのとおり、そう、そのとおり、まさにそのとおり》という境位の稀に見る、おそらく唯一の証であった。


バルトは、子どもの母を見て、ある軌跡を歩んだに違いない。それは、

これ(子どもの母)は、 母である、 また、 母でない、 そして=しかし、 紛れもなく母親だ!!!

といった軌跡である。禅的、また仏教的には次の如しである。

「“シューニヤター(空)”を体験する前は、山は山であり、川は川である。だが体験してのちは、山は山でなく、川は川はでない。しかし体験が深まる時、ふたたび山は山であり、川は川である。」


「母の子どもの時の姿」ということが何よりも肝要である。

写真に写っている幼い少女は、たしかに、ある個人として母である。しかし一方では、子どもであって母親ではなく、また、バルトが実際に見て触れた母でもない。

写真に写った少女(母の子どもの時の姿)において、母が母であることと、母が母でないことが、全くもって「」になっている。少女は一元論を形成している。その少女こそ「」である。

シェイクスピアが「きれいは汚い、汚いはきれい」、といったように、母が母であると言った時には、すでに母は母でない。これはヘーゲルの弁証法である。

be動詞で結ばれる存在論は常に二元論である。

紛れもない母であるためには、「母だ!」と叫ぶしかない。


写真に写った少女(母の子どもの時の姿)は、「母が母である」ことと、「母が母でない」ことを止揚して、一文字の「母」になったのだ。 「であること」と「でないこと」の二元論の境地を脱し、紛れもない存在に、実在に、現実になったのだ。

写真に写る少女は、<如実な母>なのだ。

「“シューニヤター”が真に“シューニヤター”(空)である時、それは“タタター”(如)と一つになる。」とはまさにこのことだろう。




「悟り」というと超人間的な者が到達する境地のように考えてしまうが、おそらく決してそうではないのだろう。

われわれは皆、上記のようなふとした気づきとして、「プチ悟り」を経験しているはずだ。

バルトのように、われわれはどこかでプチ悟りを通して現実界を垣間見ているのではないだろうか。

これはとても道徳的であり、倫理的なことだと思う。



(引用、参考書)
鈴木大拙著、工藤澄子訳(1987)、『禅』、筑摩書房、175項
ロラン・バルト著、花輪光訳(1985)、『明るい部屋 写真についての覚書』、みすず書房、123.134項



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