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CHASSOL ― 構成の芸術

三か月前にChassolのyoutubeオフィシャルチャンネルに投稿された作品
Chassol - Your name's not on the music [Ultrascore]”(https://www.youtube.com/watch?v=XN9DNJ7MmQw)

実はそこにあったのに見えていなかった世界が湧出してくる感覚
その世界のなんと愛しいことか
まさに構成の芸術である



bill wurtz、CHASSOL

youtubeで“history of japan”という動画が2日前にアップされ、今現在、視聴回数が3千万回に上ろうとしている。

一瞬にしてその言葉の調べに魅了された。

制作者はbill wurtz、彼の他の作品をあさってみたが、とてもおもしろい。

“hermonizing the weather lady”には驚かされた。

その内容は、タイトル通り、お天気お姉さんのしゃべり声をハーモナイズしているのだが、人の会話の上にコードを響かせるだけでこんなにもおもしろい現象がうまれるのかと感動した。


人のスピーチをハーモナイズする音楽作品は他にないかと探したところ、CHASSOLというアーティストが見つかった。

日本でもライブをしたことがあるということで、結構名の知れた人なのだろう。

あえてミュージシャンと言わなかったのは、CHASSOLと言う人の作品はMVやライブ映像を見る限り、その映像表現も作品の核をなしていると思われたからだ。

“Music is God my love”の温かさは何だろうか。

彼の作品と対峙すると、彼にとって神や愛とは音楽なのだということが伝わってくる。

われわれの世界に時間が流れているように、彼の世界には常に音楽が流れているのだろうか。




とりあえず、X-PIANOSとINDIAMOREをポチった。来るのが楽しみだ♪

『モナ・リザ』はなぜ名画なのか。

『モナ・リザ』」はなぜ世界一有名な傑作なのか。
『モナ・リザ』はなぜすばらしい芸術だとされるのか。

誰か納得のいく答えをお持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか。
『モナ・リザ』が人を魅惑する理由に関して興味深い考察がなされている記述等はありますでしょうか。

これだけ評価されているのですから、芸術史の文脈の問題として片づけられてしまわないような普遍的な作品であってほしいところです。

私は『モナ・リザ』を見て(直接見たことは無い)、「すごい」と単純に感じますが、それと同時に、はたして純粋無垢の状態で私がこの絵画を見て、そこに妙を感じられるのだろうかとも思います。私の『モナ・リザ』の体験は常にこのような二面性を伴っています。だからよけいに『モナ・リザ』の何がすごいのかを考えたくなり、知りたくなり、感じたくなるというわけです。


私たちに与えられているのはまずもって「絵画」です。
77cm x 53cm の絵の中に芸が詰まっているのです。
「モナ・リザは誰なのか」とか、「背景は実際に存在する場所か」とか、「表面の絵の具の下には何があるのか」などといった問いを解決することは、学術的に有意義であっても、『モナ・リザ』という絵画の魅力を説明してくれません。

『モナ・リザ』は肖像画です。
この絵画に美を感じる人はなによりも中央のモナ・リザという女性に魅かれるはずです。
そして、モナ・リザの顔を見つめ、目を合わし、微笑みを感じているとき、私は彼女と対面しています。この瞬間は我と汝の関係です。彼女もまた私を見ているのです。私は彼女の意思を探りますが、しかし、彼女は顔色一つ変えないので、私は不安になります。
そこで私は次に、モナ・リザの手を見ます。
ゆったりとした衣に覆われて座っているモナ・リザの身体において、私が彼女の生存を、つまり血の通った肉体とその動態をはっきりと感じられそうなのは手しかありません。彼女は暇そうに指を動かしているかもしれませんから。その手はふんわりと置かれ柔らかそうな肉付きをしています。この手を見ているとき、私は必然的にモナ・リザの顔から眼をそらしていますが、この瞬間、モナ・リザは隙を見て表情を変えているかもしれません。
そこで私はまた、モナ・リザの顔を見ます。しかし、彼女は表情を変えていません。私を見ているのですが見ていなく、彼女の視線は私を貫いたその先を見ているようです。ここにきて、私がモナ・リザを「あなた(汝)」として迎え入れることは空しくなり、悲しくなります。彼女は私に対して微笑んでいたのではなかったのでしょうか。もう一度確認してみましょう。
私は時間をおいて彼女を再び見つめます。すると、あれっ?、やっぱり私を見ててくれたのかも?

数字化される死者

2015年11月、13日の金曜日、パリで同時多発テロが起きた。

死者は約130人。


たったの130人である。



わたしはこのパリ同時テロを受けて、ジョルジュ・バタイユが「広島のひとたちの物語」の冒頭で突きつける客観的事実を思い出した。

世界では一日に15万人以上の人々が死んでいるらしい。
自然死、病死、事故、飢餓、殺人など、様々な理由で人々は死んでゆく。
(シリア人権監視団によれば、)シリアでは2011年から2015年にかけて約25万人(うち民間人は約11.5万人)が紛争で死んでいる。
単純計算をして、シリアで一日のうちに紛争で死亡する人数は約136人(うち民間人は約50人)である。



純粋な感性を持った人間は、パリで死んだ130人に対する哀悼とまったく同じものを、シリアで死ぬ130人にも、世界で死ぬ15万人にも有している。

そのような悟りの境地にたどり着くことは容易くなく、言ってしまえば不可能であると私には思うが、この不可能性を不可能性として真摯に受け止めることが、パリの惨劇と不幸に対して残された者が為すべき倫理だろう。

決して救済しきれぬ不幸を可能性の内に消化することで、建て前上の解決は得られるかもしれない。
しかし、今やその外観は亀裂に覆われすぐにでも崩れようとしている。

不幸の内にとどまり、かの不可能性を真剣に生き抜かねばならないことに、人びとはすでに気づいているはずだ。


至高の感性の瞬間的現在を生きようとしない者に未来は訪れないだろう。





「広島のひとたちの物語」については、ジョルジュ・バタイユ(1972)『戦争/政治/実存』山本功訳(二見書房)、を参照。
プロフィール

Author:ごろぅ

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